2011年6月27日月曜日

アイ・アム・レジェンド

 ウィル・スミスのSFホラー。レンタル開始された時から棚結構締めていたし、ネットでもダウンロードやストリーミング配信などガンガンやっていたので、観る機会はいくらでもあったのに、何か敬遠していた作品。SFホラーは好きなジャンルだが。
 これ結局ウィル・スミスが主人公という時点で回避センサーが働くんだよね。どうせ俺様映画だろって。実際あらすじを読んでみると、世界にたった一人残された主人公が・・・てな感じで、そのまんま俺様映画じゃん!となり、観てなかったというわけだ。
 原作ありで都合三度目の映画化ということで、面白いのであろうけれど、同じような有名原作SFを映画化した、ウィル・スミスの「アイ・ロボット」がひどくて。その影響もある。ウィル・スミスはインディペンデント・デイで観た時はこれほど嫌いじゃなかったんだけどねぇ。

 んでようやく今頃になってブルーレイ版を借りた始末なのだが、始まってすぐ「劇場公開版」と「衝撃の別エンディング版」を選択させられる。んー、と思いながら「別エンディング版」を鑑賞。結構よかった。
 原作「地球最後の男」は周り皆バンパイヤ。一人残った自分が昼間にバンパイヤ退治。結果→残った自分が恐怖の化け物であった!という発想(立場)の転換が肝。
 この映画では、感染者を治療しようとしていた化学者(数多くの失敗あり)→感染者にとっては拉致して殺す化け物、と時代に応じた変化があるのと、それに気付くのが感情や知性がなくなったと思われた感染者だったが、化学者を追い詰めたのは自分の恋人を取り戻すためであったとなっている。
 幾つかの伏線が最後に回収されるラストは、緊迫した場面で謎が明かされることもあり、思わずうならされてしまった。

 確かに感染者(=ゾンビ)側の視点で描かれた作品がなかったし。ロメロもゾンビに知性を与えたり、元は人間だった存在として尊厳を与えるような視点を投げかけたりなどしているが、あくまで人間側からの立場であった。
 それを更に推し進めて感染者側から正常者を観た場合、という投げ掛けは興味深かった。いやはっきり感動したと言っていいわ。

 劇場版ではどうなってたんだろう?と思って、通常エンディングを観てみたら・・・。なんと感染者はその凶暴性を持ったまま、ウィル・スミスが自己犠牲で自爆して終了。偶然できあがった血清によって人類は救われ、伝説の人となる。
 んー、ありきたりなエンディングだよね。
 ラストの自己犠牲もウィル・スミスってことでいけすかなく感動できないし。
 さらに驚いたのは通常発売されているDVDやレンタルDVDでは、この劇場版バージョンのエンディングしか入っていないとのことでビックリ。
 まあ公開されたものが真のストーリーなんだろうけど、だったら完全に改悪だと思うし、逆に言えば衝撃の別エンドバージョンは封印しなければならないのでは?
 だって最後の取捨で監督が間違いを犯したことがばれてしまうじゃん。

 試写の結果、エンディングを差し替えたらしいが、過去にも同じような映画をいくつか観たけど、大抵差し替えられたエンディングっていうのは、無難なやつが多いよね。よく言われるハリウッド的ハッピーエンド、ご都合主義と言われるもの。DVDやBDなどで映像特典が観られるようになったことで、最近多いように感じるだけで、元々こうした例はいくらでもあったんだろうな。
 しかし実はこうしたかったんですよ・・・なんて後日譚的に語るのはフェアじゃない。ディレクションしたこと含めて自らの作品だし、それこそが監督の仕事なんだし。また大衆に迎合してエンディングを替えるつーのも、作家性の放棄につながるんじゃないか。これは筒井康隆が「朝のガスパール」を執筆した時にも論じていたが。

 以上から返す返すも残念な作品と言える。元々企画されたであろう衝撃のEND版だったら出色の名作だが、陳腐なお約束ENDにしたことで只の凡作に成り下がった映画。

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